PDとの戦い


『PD』だと思われる症状が出始めた頃、理解してくれる人は、誰も居なかった。
医者でさえ、『自律神経失調症』だの『対人恐怖症』だの。
周りからは、気の持ちよう、自分が弱いからだと責め続けられた。
スーパーへ行って、レジに並べず、カゴを置いて帰って来た。
それ以来、買い物へ行けなくなった私を、責めながらでも、
元ダンナは、どう思っていたのか、人の少ない時間を見計らって、
一緒に買い物へ行ってくれた。(多分そうしないと、食事に困るからだろうか)
親に関しては、ほとんど?全く?理解が無かった。知識が無かったのだろう。

ひきこもり始めて、唯一ひとり、心許せる相手が出来た。
私の新聞投稿がきっかけで、唯一彼女Sさんだけは、なぜか、
お互い何でも話し合える相手だった。
手紙、ファックス、直接電話で話し、本当に何でも話せる相手だった。

直接逢った事は無かったけれど、写真交換し、顔は分かった。
PDの事だけに限らず、ホントに私生活の面でも何でも
いっぱい、いっぱい話しをし合った。

ある日、彼女は離婚を決め、実家に帰り静養し、
おしゃれもして、少しは外出も出来る様になってきた。
『夏の暑い日、自転車で散歩していた時、心臓マヒを起こし、倒れ、
意識不明のまま、36年間の人生を終えた。』

もう一人、たまに連絡し合ってた、またPDの知り合いに、
電話で連絡を受けた。
当然、私がパニックになったのは当たり前。
その当時、唯一の分かって、分かり合える相手を失ったのだから。
何度、私も、彼女の元へ行こうとしたか。
でも、きっと、もっともっと、生きていたかっただろう彼女。
その分、私が彼女に支えてもらって、ここまでこれたという、
その思いを抱えて、私は、彼女の分まで・・・と。

でも、やっぱり、つらい時には、挫折は何度も。そのたびに私は
彼女に逢いたいと。パニック。

9階建てのマンションに上がった事も何度か。
彼女の元へ行って、また一緒に楽しいおしゃべりしたい。
と思ってた反面、
でも、自分から彼女の元へ行く勇気は無かった。
きっと彼女が、
『あなたは、まだ来ちゃ駄目。それも自らなんて!!』って、
生きたくても、自らの選択でなく、生きられなかった彼女が、言っているようで。

彼女の事を、知らせてくれた、もうひとりのKさん。
彼女も、とにかくPDで苦しんでいて、でも、PDの事を分かってもらいたいと、
初めは一人で、手書きで、PDに関する事の広報を作り、行動していた。
そのうち、“なかま”が集まり、私も協力したいと。
工事中のH.Pを少し引き受け、
“PD患者の会 なかまの会”が出来た。
途中で、私が調子悪くなり、H.P“なかまの会”を、現在の管理人へ引き継いだ。
会報も、彼女Kさんの体調、意向により、引き渡し。
Linkしましょ
“なかまの会”参照

同じ病で、同じ悩みを持つ、“なかま”同志。
出来る様になった事。つらい事。いろいろとH.Pの中で、分かちあえた。

でも!!うつ状態になると、パソコン開く事も、おっくう。

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